中野の歴史

上/昭和7年(1932)の東中野駅あかずの踏切 左下/昭和20年(1945)頃の東中野駅 右下/現在の東中野駅 鉄道には開かずの踏切がつき物ですが、東中野駅東側にあった桐ケ谷踏切はその中でも最高クラスでした。東中野駅は、明治39年(1906)に柏木停車場として開設され、大正6年(1917)に現在の名称となりました。 関東大震災以降、中央線の走行車両は増加し、そのため踏切に大きな影響が出はじめました。開かずの踏切の誕生です。昭和7・9年の2回、地下道・跨線橋(横断橋)の設置の請願書が地元の人々から東京鉄道局長あてに提出されました。それによると昭和9年7月23日の午前7時から8時の調査では、約1時間に80本の通過電車があり開いていたのはそのうち12分間ということでした。 やがて昭和10年(1935)に跨線橋(横断橋)ができ、徒歩の人の不便は解消され、自動車・自転車については改善されませんで...

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左/明治42年(1909)(左)と現在の中野駅周辺の地形(南側が掘削されていることがわかる。) 右/昭和4年(1929)東側に移動、新築された中野駅 大正元年(1912)の中野駅の昇降客は一日平均1,981人でしたが、大正10年(1921)には6,752人に膨れ上がります。大正12年(1923)の関東大震災は人口の郊外流出のきっかけとなり、昭和元年(1926)にはなんと17,406人と激増しました。 当時、今より100m西側あった中野駅は北側が軍事施設に接しているため、ほとんど開発する余地がありませんでした。また、南側も、桃園通りを中心とした商店街が発展し、激増する利用者への対応能力は限界にきていました。 そこで、北側と南側が空いていた現在の位置に中野駅を移すことになったのです。単純な移動ではなく、軍事施設の東側の道を鉄道の下に通し、さらにそのまま、桃園川まで至り、現在の五差路まで掘り...

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左/明治42年(1909)の中野駅とその周辺 右/明治40年代の中野駅(南口) 明治22年(1889)にできた中野停車場(現在の中野駅)は今より、約100mほど西側にありました。その頃の中野駅は、一面の雑木林とわずかな畑といった広漠たる武蔵野の原野でした。 さて、駅は出来ましたが駅前が発展するのには少し時間がかかりました。それは、今まで400年来の商業・産業の中心地が青梅街道筋にあったことと、人々が鉄道に対する誤解から、中央線の敷設に反対していたという二つの理由からです。当面の間は、青梅街道へ歩いていくための最寄駅としての役割が主でした。 やがて、明治30年(1897)に陸軍鉄道大隊が北側に設置され、それ以降に、中野三丁目一帯には貴族院議員神田乃武の10,000坪の屋敷や中野一丁目には衆議院議員望月右内の屋敷などが建てられ、大正時代までには政治家・実業家の邸宅地として発展しました。また...

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左/井上円了の墓所(江古田蓮華寺)※井の上に円を配置し完了するといったデザインは生前、円了がみずから考えたものといわれている。 右/東京都名勝哲学堂公園(右から六賢台・四聖堂・宇宙館) 明治時代、急激な西洋化は、日本の伝統的な考え方に大きな変化を与えました。西洋・東洋の哲学を融合し、そこに人間の生きる道を見出し、哲学を万民のものに普及しようとする哲学者井上円了は、中野区和田山(現在の松が丘)に「哲学堂」を建てました。 哲学堂は明治37年(1904)に釈迦・ソクラテス・カント・孔子を祀る「四聖堂」を建てたことにはじまります。その後、諸施設を拡充し、現在に至っています。 哲学堂は大きく三つのエリアによって哲学の骨格を説明します。人は心と物のよって造られ、それは哲学堂内の二つの庭「唯物園」「唯心庭」によって象徴されます。しかし、これだけでは進みません。ここに、空間と時間を付与すると、人間たる...

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左上/板倉重昌の墓所(宝和寺) 右上/吉良家の墓所(萬昌院功運寺) 左下/新井白石の墓所(高徳寺) 右下/新見正興の墓所(願正寺) 中野区上高田一丁目の早稲田通り沿いと上高田四丁目は通称「寺町」と呼ばれ、たくさんのお寺があります。これらの寺々は東京の都市化にともなって、明治時代の末から大正時代に旧江戸市中から移転してきたものです。著名な人のお墓も多く、それだけでも江戸時代を語ることができます。 江戸時代前期では、島原の乱の鎮圧軍の指揮官ながら討死した悲劇の武将「板倉重昌」(宝泉寺)のお墓があります。中野区登録有形文化財のりっぱな五輪塔です。江戸時代中期では「忠臣蔵」にゆかりのある人々が挙げられます。仇とされた「吉良上野介」と吉良家四代の墓(万昌院功運寺)は宝篋印塔と呼ばれる格式高い墓で中野区登録有形文化財です。松の廊下で浅野内匠頭を取り押さえた「梶川与惣兵衛」(天徳院)、幕末に赤穂浪士...

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上/昭和7年(1932)頃の電信隊(北西早稲田通り上空から中野駅方面を望む) 左下/大正4年(1915)開発された軍用飛行船「雄飛号」 右下/軍用鳩の飼育風景(後の都電杉並線) 中野区役所西側の四季の森公園は、オフィス街と大学と合わせたとてもおしゃれな公園ですが、70年前まで陸軍の施設がありました。 中野停車場(現中野駅)の北側一帯は、かつて5代将軍徳川綱吉によつて設けられた「お囲い」の跡地で、広大な雑木林や桑畑となっていました。 明治30年(1897)、ここに「陸軍鉄道大隊」が設けられ、中野停車場から引き込み線が現在の帝京平成大学・早稲田大学のあたりまで敷設むされました。通称「囲町軍事施設」です。鉄道大隊は、日清戦争の折の物資補給方法に鉄道の役割が重要であるということから生まれた鉄道専門の部隊でした。軍事的な研究・活動ばかりでなく、民間の鉄道敷設にも活躍しました。近くでは西武村山線(...

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左/明治39年頃の中野駅 右/昭和7年頃 青梅街道・中野坂下(淀橋附近)を走る西武軌道鉄道(後の都電杉並線) 明治20年頃になると、路線も青梅街道の北側、現大久保通りとの間を通す新案が示されましたが、地域住民の意見は「鉄道は村を衰微せしむ」という内容に集約され、これも実現しませんでした。 とうとう、江戸時代以来の産業の中心であった甲州街道・青梅街道沿線をあきらめ、用水や畑が少なく森の多い現在の路線に決定されたのです。東中野-立川間が直線なのは、このとき、万策つきた担当者が地図の上に定規で線を引いたためという伝説もあります。 さて、住民の根強い反対の中で開通した甲武鉄道でしたが、中野停車場周辺は軍事施設が設置されたり、商店が増えたり、住宅化が進んだりと沿線は目覚ましい発展を遂げていったのです。 一方、さびれた様相を呈してきた青梅街道筋では、路面鉄道の誘致が叫ばれ、大正10年(1921)8...

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鉄道敷設反対の請願書 明治18年8月(歴史民俗資料館に展示) 明治維新以降、鉄道の開通は文明開化の象徴でした。中野区には東京の幹線でもある中央線が通っています。明治22年(1889)4月11日に新宿-中野-境-国分寺-立川間に開通した中央線は当時甲武鉄道と呼ばれていましたが、その開設は苦労の多いものでした。 甲武鉄道の計画は、明治18年(1885)5月25日に5人の実業家によって東京府知事あてに願いが出されたことが始まりです。その理念は「国家豊饒は物産の振興と運輸の便を開くことであり、沿線住民の益にもなる」というものでした。 当時は、甲州街道と青梅街道の間を通って八王子まで開通させるという計画でした。これに対して、地域住民の反応は早く、8月には、角筈村・柏木村・幡ヶ谷村・中野村・本郷村・雑色村・和田村・永福寺村・和泉村といった現在の新宿区西部・渋谷区北部・中野区と杉並区南部の村々から反...

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  明治元年、江戸が東京と改められ、新しい時代がはじまりますが、その後の行政区分は混乱を極めました。武蔵国には当初、東京府・武蔵知県事・神奈川府が置かれ、中野は武蔵知県事に属しましたが、明治2年には品川県を新設し、そちらに移ります。明治4年(1871)の廃藩置県によって、それまでの江戸市中が見直されるとともに、品川県が廃止されて、一時東京府の管轄になりました。 しかし、明治5年(1872)5月には旧品川県の一部であった中野・杉並と多摩郡は、なんと神奈川県に組み換えされたのです。何かと多い役所の用事を横浜まで行かなければできなくなったのです。歩きの時代ですので、横浜までは一泊しないと行けません。これにはさすがの村々も閉口し、元に戻してほしいという嘆願がなされ、3か月後の8月に再び東京府に戻りました。 東京府になり、現在の23区は大区小区に分けられました。中野は第八大区南部が第六小区、北部...

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左/彰義隊隊士が傷の手当を受けたと伝えられている椎の木(歴史民俗資料館の園庭) 右/彰義隊隊長が置いて行ったと伝えられる徳川斉昭の書(歴史民俗資料館所蔵) 明治元年(1868)5月、維新最後の激戦であった上野戦争が終結し、旧幕臣で構成された彰義隊隊士が敗走してきました。 中野でも、その一隊が宝仙寺・慈眼寺あたりに敗走して助力を求めてきましたが、素行も悪い隊士も多く、青梅街道筋では住民が団結して協力をこばみ、村内には入れなかったといいます。 一方、北部では別な話が伝えられています。村々では彰義隊の敗走を聞いて、皆、雨戸を閉ざして、安全な場所に避難する人々が多かったといいます。そんな中、江古田村名主家山﨑家では、門前で雑炊を炊いたり、傷の手当をするなど、手厚くふるまいました。 その時、隊長が「徳川の世が挽回したら、これを持って名乗るように」とお礼に置いていった掛け軸が、湯島の聖堂から持ち出...

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