【中野の歴史10-1】移転した中野駅-駅前広場は掘られてできた


左/明治42年(1909)(左)と現在の中野駅周辺の地形(南側が掘削されていることがわかる。) 右/昭和4年(1929)東側に移動、新築された中野駅


大正元年(1912)の中野駅の昇降客は一日平均1,981人でしたが、大正10年(1921)には6,752人に膨れ上がります。大正12年(1923)の関東大震災は人口の郊外流出のきっかけとなり、昭和元年(1926)にはなんと17,406人と激増しました。

当時、今より100m西側あった中野駅は北側が軍事施設に接しているため、ほとんど開発する余地がありませんでした。また、南側も、桃園通りを中心とした商店街が発展し、激増する利用者への対応能力は限界にきていました。

そこで、北側と南側が空いていた現在の位置に中野駅を移すことになったのです。単純な移動ではなく、軍事施設の東側の道を鉄道の下に通し、さらにそのまま、桃園川まで至り、現在の五差路まで掘り下げて、中野通りを造ったのです。特に南口は東西約120m・南北約150m・深さ約4mの規模を掘り下げ、現在の形が造られたのでした。
 
そして、昭和4年(1929)11月1日に今の中野駅が完成したのです。

近くに住んでいた詩人中原中也は昭和3年の完成間際の様子を次のように記しています。「新しく出来た六間道路(中野通りのこと)とその辺の者が呼んでいる通りには(中略)ホンの三・四軒の店屋が所々にあるのは、まるで蛍でもいるような感じだった。」と・・・

(中野区立歴史民俗資料館 館長 比田井克仁)

「中野の歴史」は、毎月第1~第4金曜日10:00に更新する連載コラムです。

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