【中野の歴史11-4】 絵の指導と子供たちの瞳(中島菊夫)


左上/中島菊夫 右上/疎開先に送った「唐児遊図」全面直筆で複数作成した 左下/疎開先の中島菊夫と子供たち 右下/代表作「日の丸旗之助」  


戦前。少年たちを釘づけにした、三大マンガ作品「のらくろ」「冒険ダン吉」「日の丸旗之助」をご存知ですか?

この中で戦後、筆を折った漫画家がいます。それは「日の丸旗之助」の作者、中島菊夫です。中島菊夫(1897~1962)は、高知県に生まれ、小学校の教師となりましたが上京、中野区上鷺宮に住み漫画家となりました。戦時中、学童疎開がはじまると志願して鷺宮国民学校(現在の鷺宮小学校)の美術の教師となり、親元・家族から離れて福島県で暮らす子供たちにイラスト入り「慰問新聞」で故郷鷺宮の様子を伝える新聞を送り続けました。コピーのない時代ですので、すべてが中島自筆のものでした。やがて、戦局が悪化すると、疎開先でつらい生活をしている子供達に直接触れ合い、世話をするためにご夫妻で福島県の疎開先に赴任しました。そこでは美術の指導を徹底し、展覧会を開いたり、その様子を作品集にして鷺宮小学校に送ったりと、子供たちの心の成長に全力を尽くしました。戦後、教え子たちは社会で活躍をした方々も少なくありません。

教え子たちが成人した頃の同窓会の写真を見ますと、二十四の瞳の大石先生の男版を彷彿とさせます。壺井 栄と中島菊夫が至近距離に住んでいたのは何かの偶然だったのでしょうか? お二人が知り合いであったかどうか、今では知る術もありませんが、そうあって欲しいなあと思います。

(中野区立歴史民俗資料館 館長 比田井克仁)

「中野の歴史」は、毎月第1~第4金曜日10:00に更新する連載コラムです。

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