【中野の歴史12-4】わだばゴッホになる-情熱の人、棟方志功と大和町の人々


左上/「十二支板画時計」 右上/棟方志功 区民撮影 下/棟方志功が住んでいた頃の大和町 


青森の生んだ、天才板画家棟方志功(1903~75)は、25歳から39歳まで中野区大和町に住み、初期の代表作はこの地で制作されました。中でも、棟方が飛躍する契機となった作品「大和し美し」(1936)、戦後に国際的な賞を数々受け、棟方の世界的評価を確立した作品「二(に)菩薩(ぼさつ)釈迦(しゃか)十大(じゅうだい)弟子(でし)」(1939)が知られています。

棟方は、疎開のため、昭和18年(1943)に中野区を離れて以後、区内に住むことはありませんでしたが、終生、大和町の頃の人々との交流を大切にしていました。昭和26年(1951)末に富山県から杉並区上荻に転居しましたが、新居の修理を、大和町に住んでいた頃に懇意にした大工職人に依頼したり、時計の修理を大和町の職人に一任したりしていました。作品のひとつ「十二支板画時計」は職人の発案で時計は職人、文字盤は棟方の合作で限定生産したものです。沼袋・江古田には写生のためによく訪れていましたが、戦後すぐ百観音明治寺が若い人たちを集めて生涯学習活動をしていることを知るや、観音・不動・花瓶の板木を寄贈し、機関誌の表紙を飾るなど、一生懸命な人々への応援をいといませんでした。

「人との交誼も、三十年とつないでくると、なんといわれようと安堵です。幸せなことに、四十年、五十年からの人もおります。」この言葉に、棟方の人に対する温かい心が表れています。

(中野区立歴史民俗資料館 館長 比田井克仁)

中野の歴史は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました

バックナンバー

PAGE TOP