桃園川の暗渠(あんきょ)の上を歩く3【橋場橋-御伊勢橋】

前回の【宮園橋-桃園橋】に続いて、現在の中野通りを横切り、大久保通りに沿う様に下流に進む途中にある橋梁を紹介したいと思います。
また補足として、個人的に杉並区~中野区の流れを支流も含め橋梁があった場所がわかる範囲でまとめた地図もこちらに掲載しておきます。
※過去の資料は文献に寄って異なる記載が多く見受けられる事を予めご了承下さい。
【橋場橋】
名称の由来は旧町名の橋場町から付けられたものと推測されます。
徳川家将軍が鷹狩等でこの地を訪れ桃園橋を渡る際に架け替える専用の橋板を保管する場所があった事からこの町名が付いたと言われています。
種別:木桁橋 位置:宮園町4-17、橋場町31 面積:24.99㎡ 河川名:桃園川 中野区史(昭和19年)より 架設年度:昭和39年/1964年 架け替え: |
【北畑橋】
名称の由来は不明ですが、戦前にはその存在を見受けられる事が出来ます。
この時期に鉄筋コンクリート製の橋梁であった事から、早い時期から多くの住民に利用されていた橋だったと推測されます。
種別:鉄筋混凝土框構 位置:宮園町4-9、橋場町29 面積:25.29㎡ 河川名:桃園川 中野区史(昭和19年)より 架設年度:昭和36年/1961年 |
【上宮橋】
旧町名であった上町と宮園町から一字ずつ取った言わば合成地名の様なモノが名称の由来と推測しております。戦前には既にその存在を見受けられる事が出来ます。
中野区報第147号(昭和33年10月10日)によりますと、この年に発生した台風22号の400㎜を超える豪雨のせいで当時の木桁橋が流されたと記載があります。

上宮橋親柱竣功プレート
種別:木桁橋 位置:宮園町4-1、橋場町21 面積:25.75㎡ 河川名:桃園川 中野区史(昭和19年)より 架設年度:昭和35年/1960年 |
【御伊勢橋】
この橋から青梅街道に向かう道中に天祖神社(お伊勢の宮)があり、それが名称の由来になったと推測されます。戦前にはその存在を見受けられる事が出来ます。
種別:木桁橋 位置:宮園町3-43、上町34 面積:23.52㎡ 河川名:桃園川 中野区史(昭和19年)より 架設年度:昭和35年/1960年 |
上流に引き続き、橋梁名でその場所に古くからある建物や旧町名の痕跡を知る事が出来ます。
更にこの後も下流に向けて橋梁を引き続き紹介していきたいと思います。
参考文献・アプリ(リンク先:中野区立図書館デジタルアーカイブ)
『中野町誌』
『中野区史下巻2』
『中野区報』
『中野区橋梁長寿命化修繕計画』
『中野の歴史』
『なかのの地名とその伝承』
『中野の昔話・伝説・世間話』
『続中野の昔話・伝説・世間話』
『東京時層地図』
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