桃園川の暗渠(あんきょ)の上を歩く6【宝仙橋-塔ノ下橋】

前回の【仲園橋-金剛橋】に続いて、大久保通りに沿う様に下流に進む途中にある橋梁を紹介したいと思います。
また補足として、個人的に杉並区~中野区の流れを支流も含め橋梁があった場所がわかる範囲でまとめた地図もこちらに掲載しておきます。
桃園川水系橋梁予想地図(支流含)
※過去の資料は文献に寄って異なる記載が多く見受けられる事を予めご了承下さい。
【宝仙橋】
名称の由来はその名の通り、宝仙寺に続く道に架かる橋であった事が推測されます。
古地図アプリの東京時層地図を見ると昭和戦前期(約90年前)にここに道が造られたのがわかります。
また昭和37年2月13日発行の中野区報によると、宝仙橋から三味線橋まで川ざらいが行われたという記載があります。
前年の中野区報にも仲町~小淀町の区間で川ざらいが行われた記述がある事から、この辺りでは特に河川の流路を綺麗に確保する必要性があったのかもしれません。
種別:木桁橋 |
【宮前橋】
名称の由来は、この場所の旧町名である宮前町から取って付けられたものと推測されます。
宮前とは、その地域にある神社の参道や付近の地名として付けられる事が多く、ここでは中野氷川神社の参道の南側にこの地が位置する事から付けれられたと思われます。
種別:木桁橋 |
【東雲橋】
名称の由来は不明です。
金渓橋と同じく、古い資料にも記載が無く個人的に調査をしている中でも、由来に繋がる情報が見つからない橋梁です。
『東雲=夜明け』という意味合いを考えると、何かそれに繋がるものがこの場所にあったのかもしれません。
町名:宮園(宮園通)1-23 |
【塔ノ下橋】
名称の由来は、この場所の旧町名である塔ノ山町から桃園川から道を下った場所にある事から付けられたものと推測されます。
また塔というのは、宝仙寺境内に平成4年に再建された三重塔の事で、元々は昭和20年の空襲で焼失するまで、約300年程は現在の旧区立第十中学校があった場所に建っていました。
現在でもこの地には、小学校をはじめ、塔ノ山の名称が多く残っています。
また大雨などの増水時に暗渠の水位を確認できる「桃園川幹線水位状況」がこの橋梁側に建っています。

桃園川幹線水位状況
種別:鉄筋混凝土框構橋 |
この辺りは古い時代から中野の中心地近辺にあたり、橋梁名の由来は宝仙寺や中野氷川神社に関連するものが多くなります。
ここから山手通りを超えて、神田川合流地点まであとわずか。
残り2回程になりますが最後までお付き合い下さい。
参考文献・アプリ(リンク先:中野区立図書館デジタルアーカイブ)
『中野町誌』
『中野区史下巻2』
『中野区報』
『中野区橋梁長寿命化修繕計画』
『中野の歴史』
『なかのの地名とその伝承』
『中野の昔話・伝説・世間話』
『続中野の昔話・伝説・世間話』
『東京時層地図』
『大江戸今昔めぐり』
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