【中野の歴史10-2】東中野駅、開かずの踏切30年物語


上/昭和7年(1932)の東中野駅あかずの踏切 左下/昭和20年(1945)頃の東中野駅 右下/現在の東中野駅


鉄道には開かずの踏切がつき物ですが、東中野駅東側にあった桐ケ谷踏切はその中でも最高クラスでした。東中野駅は、明治39年(1906)に柏木停車場として開設され、大正6年(1917)に現在の名称となりました。

関東大震災以降、中央線の走行車両は増加し、そのため踏切に大きな影響が出はじめました。開かずの踏切の誕生です。昭和7・9年の2回、地下道・跨線橋(横断橋)の設置の請願書が地元の人々から東京鉄道局長あてに提出されました。それによると昭和9年7月23日の午前7時から8時の調査では、約1時間に80本の通過電車があり開いていたのはそのうち12分間ということでした。
やがて昭和10年(1935)に跨線橋(横断橋)ができ、徒歩の人の不便は解消され、自動車・自転車については改善されませんでしたが、昭和12年(1937)2月27日の朝日新聞夕刊には、地下道建設が年内に完成する目途がついたという記事が掲載されています。

ところが、同様の記事がそれから23年後の昭和35年(1960)8月3日の朝日新聞朝刊にも出ていたのです。つまり、昭和12年(1937)には工事は着工されなかったのです。理由は、立ち退き・土地取得が進まないうちに戦時体制に突入し、中止となったということです。結局、昭和37年(1962)に迂回路は完成し、桐ケ谷踏切はこの時まで、開かずの踏切として君臨していたのでした。

(中野区立歴史民俗資料館 館長 比田井克仁)

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