【中野の歴史-古代編5-】弥生時代の巨大集落

松が丘の片山遺跡から新井三丁目遺跡方面を望む(イメージ)

稲作がはじまった弥生時代は、安定した食糧生産のため大規模な拠点的集落が成長し、首長も登場します。

中野区では弥生時代後期(1世紀後半~3世紀初頭)の拠点的集落が発見されています。北部では266軒の竪穴住居跡・高床倉庫3棟・方形周溝墓(首長の墓)6基が検出された妙正寺川流域の平和の森・新井三丁目遺跡、南部では104軒の住居跡が発見された神田川流域の広町遺跡(弥生町6丁目)が挙げられます。
住居跡は重なって造られていることから継続的に集落が営まれていたことがうかがえます。特に平和の森・新井三丁目遺跡では住居のほかに高床倉庫・首長の墓などがあることから、典型的な弥生時代の集落の特徴を備えています。
出土した土器を見ると、地元のものに交じって、静岡県東部の特徴をもつもの、長野県東部の可能性がある土器などがあり、これらの遠隔地域との人の行き来があったことが注目されます。

また、広町遺跡では鉄鏃(てつぞく:鉄製の矢じり)や道具の一部とみられる鉄製品が出土したことも、あまり例を見ないものです。
区内の弥生町(最初の弥生土器発見地である文京区弥生町とは別)という町名は、戦前に弥生土器が出土したことにちなみますが、その弥生土器は今日まで伝わっていないのは残念なことです。一説によれば太平洋戦争の空襲で焼失したといわれています。
(中野区立歴史民俗資料館館長 比田井克仁)

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