【中野の歴史-古代編7-】そして誰もいなくなった

奈良・平安時代の武蔵国の各郡●は中野区の位置■が国府の位置

なぜか中野区には奈良時代(8世紀)の集落遺跡がありません。それ以前の集落は、6世紀代から7世紀中頃まで、北原遺跡・平和の森遺跡・新井三丁目遺跡・中野神明小学校校庭遺跡・富士見台遺跡・向田遺跡など区内全域に認められているのですが、8世紀になるとパタッとなくなってしまいます。普通は遺跡はなくても土器のかけらぐらいは見つかるものですが、それもありません。いったい何が起こったのでしょうか。

7世紀後半、全国の国が定められ、中野区は武蔵国多摩郡の一番東側に属しました。武蔵国の国府は府中市に定められ、国司が派遣されました。国司の第一の任務は今も変わらす税収の確保でした。当時の主な税は「正税」といって稲の収穫でした。武蔵野台地の真ん中で水田の少ない中野区は、税収の向上には向かない地域でした。ちょうど、国全体として開墾計画が進められていましたので、新たな新田開発が始まっていたのです。この界隈では、多摩川流域の狛江・調布・府中・日野といった可耕地が開発されたと考えられます。その証拠として、これらの地域では7世紀末以降に急激に集落遺跡が増えていていることが挙げられます。

反面、この時期に遺跡がなくなることは、集落が計画的に移住させられたということが考えられます。中野区の7世紀後半以降の人々は多摩南部地域へと引っ越して行ったのです。
(中野区立歴史民俗資料館館長 比田井克仁)

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