【中野の歴史-中世編6-】江古田原沼袋合戦古戦場

左/「江古田原沼袋合戦の碑」(江古田公園) 右/江古田原沼袋合戦の戦要図

 

中野区江古田1丁目と2丁目一帯は江古田原沼袋合戦の古戦場跡です。それではどんな合戦だったのでしょうか。登場人物は、太田道灌と豊島氏です。

当時の関東は二つの勢力に分かれ対立していました。鎌倉を脱出して茨城県古河に本拠を置いた足利成氏(古河公方)と鎌倉に本拠を置く関東管領山内上杉家・扇谷上杉家の二つです。江戸城を築いたことで有名な太田道灌は扇谷上杉氏の有力武将でした。一方、石神井・練馬といった武蔵野台地北部に本拠を置く豊島氏は鎌倉時代初期以来の武蔵野の名族でした。中立を保っていた豊島泰経が古河公方についたことにより事態は緊張しました。

文明9年(1477)4月14日に豊島氏と太田道灌が衝突をしたのが「江古田原沼袋合戦」です。現在の哲学堂あたりに太田勢、中野区立歴史民俗資料館あたりに豊島勢が対峙したと推定されます。戦いは熾烈を極め、その顛末を道灌自身が記した「道灌状」によると豊島方の戦死者は約80名に及び、その中には豊島方の有力武将も含まれていました。双方合わせると160名以上の戦死者が想定されます。江古田地域には昔から錆びた刀や鎧が出土する塚があり、この合戦の戦死者を葬った豊島塚と呼ばれていました。7カ所ほど知られていましたが、現在、残されているのはお経塚(江古田2丁目14番)と金塚(江古田4丁目41番)の2か所だけです。

(中野区立歴史民俗資料館館長 比田井克仁)

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