【中野の歴史-近世編1-】 徳川将軍家と中野

2016.07.15 UP

投稿者:中野区

左/東福寺(江古田三丁目)左に「徳川将軍御膳所の碑」がある。 右/東福寺古写真左のお堂に御成の間があったと伝えられている。

江戸時代、中野は、江戸に近い直轄支配地として、また、鷹狩りの指定地としても重きを成していました。また、江戸から日帰りできる距離という利点もありました。そのため、徳川将軍家との関わりも少なからずあったのです。

中野と将軍家との関係は3代家光の頃から記録に出てきます。「徳川實記」によると家光は、寛永17年(1640)1月25日から正保4年(1647)10月26日までの7年間に尾張徳川・紀伊徳川家をはじめ重臣達を伴い29回も中野に鷹狩りに訪れています。年4回平均です。

また、旧江古田村には正保年間の鷹狩の折に東福寺で江古田獅子舞を上覧したという言い伝えがあります。

江古田獅子舞の上覧は、8代将軍吉宗の時、享保13年(1728)2月12日にこのときに御膳所(将軍家の指定を受けた公式の休憩場所)に指定された東福寺で行われています。東福寺には「御成の間」が造られ将軍来訪に備えましたが、現在は残されていません。

その後の将軍たちも鷹狩りで中野を訪れています。10代家治(12回)、11代家斉(8回)、12代家慶(1回)、13代家定(1回)と記録されています。鷹狩りで将軍の立たれる「お立ち場」も中野3丁目の「桃園」、東中野5丁目の「中山のお立ち場」、上高田5丁目の「お立ち場」が知られています。

(中野区立歴史民俗資料館館長 比田井克仁)

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