【中野の歴史-近世編6-】 青梅街道、味噌・蕎麦・ビール

左/あぶまた味噌の釜  中央/そば粉用の石臼〔径約1.8m〕(石森ビル玄関に展示) 右/浅田ビールのラベル

江戸時代、青梅街道は江戸五街道に次ぐ重要幹線道路でした。江戸城築城のために青梅に産出する石灰を運ぶ役割として開設されましたが、泰平の世になると、多摩地域の物資輸送路というライフラインに変わりました。中野宿は最後の宿場町にあたり、すべての物資の集荷地としてにぎわったのです。

豊かな原料はやがて地場産業を発展させます。大豆から味噌・醤油生産などの醸造業、麦・蕎麦からは製粉業が興りました。浅田醸造所・石森製粉、いまでも現役のあぶまた味噌などが有名でした。
明治になって造られた浅田ビールは内国博覧会で一等賞を得ました。その後、ビール醸造業は合併吸収が繰り返され、浅田ビールは最終的にはキリンビールの傘下に入りました。

また、江戸の信州そばの中身は中野の蕎麦粉という話もあります。当時、信州の蕎麦粉は中仙道を辿りながら江戸に入ってきました。御存じのとおり中仙道には沢山の宿場があります。中継地点が多いほど運ばれる物資の価格は高くなります。一方、深大寺そばで有名な多摩地域でも蕎麦粉の生産が行われていました。ここでおわかりの通り、道筋が短く宿場の少ない青梅街道の蕎麦粉は安いのです。
しかし、悔しいかな江戸っ子達は、中野(多摩)の蕎麦粉を使いながらも、信州・更科・戸隠などとブランド名をつけて多いに儲けたのでした。
(中野区立歴史民俗資料館館長 比田井克仁)

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