【中野の歴史-近世編8-】 江戸時代の香りただよう商売

四谷大木戸の風景(馬に肥え樽をしょわせて行進)

 

江戸時代、青梅街道中野宿を中心に流通産業が発達しましたが、水田面積の少ないこの地域では野菜が主力生産物でした。大都市江戸への野菜供給地として重要な役割を担っていたのです。

良い野菜を育てるために肥料は欠かせません。科学技術の遅れていた江戸時代、最高の肥料と考えられていたのが、なんと人の便と尿だったのです。これは「下肥」と呼ばれていたもので、根拠はないのですか大名屋敷のものが最高級とされていました。

中野各村では競って大名家と契約を結び、良い?「下肥」を獲得していました。中野村名主堀江家では尾張徳川家、江古田村名主深野家では榊原家のトイレ掃除を請け負っていました。請負とはいってもこちら側がうんこを買うわけですので、売り手側から価格引き上げが起こり、入札制も採られるようになりました。堀江家では落札に失敗し、中野村では、一時、畑が荒廃したといいます。実際、需要が増大した結果、価格高騰が起こり寛政年間から引き下げ運動が起こっています。幕府もこれを認め、価格安定が図られました。

青梅街道では、明け方、新鮮な野菜を積んで江戸に向かい、昼前は新鮮?な下肥を積んで村へ帰る姿が日常の光景だったようです。毎日、さぞかし、よい香りが漂っていたことでしょう。

(中野区立歴史民俗資料館館長 比田井克仁)

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