【中野の歴史-近世編11-】 飛んできた臼-淀橋水車爆発事件


左/「淀橋水車模型」(歴史民俗資料館に展示) 右/江戸名所図会に描かれた淀橋水車

 

幕末、ペリー来航やロシア船来航をきっかけに、江戸幕府は軍備増強を痛感し、お台場の築造、大砲の製造などに着手しました。焔硝(火薬)の製造には、江戸近郊の民間所有の穀物用の水車が駆り出され転用されました。淀橋のたもとにあった「淀橋水車」(現、新宿区北新宿2-22)もその一つです。

しかし、元々、火薬用の施設ではないため、操業開始後次々と爆発事故を起こし始めたのです。安政元年(1854)の3月5日に板橋宿原水車場、4月6日に牛込矢来下酒井家下屋敷水車場、4月12日には荏原郡小山水車場と2ヶ月間に3か所で爆発事故を起こしたのです。これには、淀橋周辺の人々も危険を感じ、連判で焔硝製造中止の願い出をしたのでした。その矢先の6月11日、淀橋水車は大爆発を起こしたのです。午前5時爆発、大小の水車小屋・建物・焔硝蔵(火薬庫)が次々と爆発しながら微塵もなく粉砕され、隣接している神田川のほとりの杉・ケヤキ・銀杏・松の大木ははねちぎれ、約400m西側の宝仙寺三重塔辺りまで折れた柱が三本飛び、500m離れた成願寺では爆発の震動で諸堂が破損したそうです。

また、約200m離れたところに、この時飛んできた径61㎝・厚さ20㎝の石臼が昭和初年まで残されており、この頃まで人々に鮮烈な記憶として残っていました。

(中野区立歴史民俗資料館館長 比田井克仁)

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