【中野の歴史-近世編15-】 彰義隊と中野


左/彰義隊隊士が傷の手当を受けたと伝えられている椎の木(歴史民俗資料館の園庭) 右/彰義隊隊長が置いて行ったと伝えられる徳川斉昭の書(歴史民俗資料館所蔵)

 

明治元年(1868)5月、維新最後の激戦であった上野戦争が終結し、旧幕臣で構成された彰義隊隊士が敗走してきました。

中野でも、その一隊が宝仙寺・慈眼寺あたりに敗走して助力を求めてきましたが、素行も悪い隊士も多く、青梅街道筋では住民が団結して協力をこばみ、村内には入れなかったといいます。
一方、北部では別な話が伝えられています。村々では彰義隊の敗走を聞いて、皆、雨戸を閉ざして、安全な場所に避難する人々が多かったといいます。そんな中、江古田村名主家山﨑家では、門前で雑炊を炊いたり、傷の手当をするなど、手厚くふるまいました。

その時、隊長が「徳川の世が挽回したら、これを持って名乗るように」とお礼に置いていった掛け軸が、湯島の聖堂から持ち出した「徳川斉昭」の書でした。この書は今でも中野区立歴史民俗資料館
に保管されています。その後、一隊は埼玉県飯能をめざして退却していったそうです。

また、この時、隊士の傷の手当をした場所が、資料館の庭にある「椎の木」のたもとであったと伝えられています。
樹齢が400歳とも600歳ともいわれる椎の木は中野区の天然物に指定され、今も歴史を見つめています。

(中野区立歴史民俗資料館館長 比田井克仁)

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