【中野の歴史-近代編1-】 えっ中野は神奈川県だった!?

 

明治元年、江戸が東京と改められ、新しい時代がはじまりますが、その後の行政区分は混乱を極めました。武蔵国には当初、東京府・武蔵知県事・神奈川府が置かれ、中野は武蔵知県事に属しましたが、明治2年には品川県を新設し、そちらに移ります。明治4年(1871)の廃藩置県によって、それまでの江戸市中が見直されるとともに、品川県が廃止されて、一時東京府の管轄になりました。

しかし、明治5年(1872)5月には旧品川県の一部であった中野・杉並と多摩郡は、なんと神奈川県に組み換えされたのです。何かと多い役所の用事を横浜まで行かなければできなくなったのです。歩きの時代ですので、横浜までは一泊しないと行けません。これにはさすがの村々も閉口し、元に戻してほしいという嘆願がなされ、3か月後の8月に再び東京府に戻りました。

東京府になり、現在の23区は大区小区に分けられました。中野は第八大区南部が第六小区、北部が第七小区となりました。大区長は東京府派遣、小区長は各村々の旧名主が任命されました。南部では堀江家はじめ秋元家・伊藤家・小谷津家、北部では山﨑家などが挙げられます。

今、私の席から都庁が見えます。横浜まで行かなくて済んだのは、本当に先人の皆様の努力と、感謝しています。

(中野区立歴史民俗資料館館長 比田井克仁)

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