【中野の歴史-近代編2-】 中央線敷設反対運動

2016.11.18 UP

投稿者:中野区


鉄道敷設反対の請願書
明治18年8月(歴史民俗資料館に展示)

 

明治維新以降、鉄道の開通は文明開化の象徴でした。中野区には東京の幹線でもある中央線が通っています。明治22年(1889)4月11日に新宿-中野-境-国分寺-立川間に開通した中央線は当時甲武鉄道と呼ばれていましたが、その開設は苦労の多いものでした。

甲武鉄道の計画は、明治18年(1885)5月25日に5人の実業家によって東京府知事あてに願いが出されたことが始まりです。その理念は「国家豊饒は物産の振興と運輸の便を開くことであり、沿線住民の益にもなる」というものでした。

当時は、甲州街道と青梅街道の間を通って八王子まで開通させるという計画でした。これに対して、地域住民の反応は早く、8月には、角筈村・柏木村・幡ヶ谷村・中野村・本郷村・雑色村・和田村・永福寺村・和泉村といった現在の新宿区西部・渋谷区北部・中野区と杉並区南部の村々から反対の意思が東京府知事あてに示されたのです。その理由は、耕地が分断される、農作物に被害がある、民有地の買収は困難、ひいては甲州青梅街道沿いの村々の商業が失われることが心配されるというものでした。

実業家達は、影響のかからない村や、境界だけを通過するだけの村々などを示した上申書を提出するなどして調整を図りましたが、はかばかしい成果は出ませんでした。

(つづく)

(中野区立歴史民俗資料館 館長 比田井克仁)

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