【中野の歴史-近代編3-】 中央線開通と鉄道網の発展


左/明治39年頃の中野駅 右/昭和7年頃 青梅街道・中野坂下(淀橋附近)を走る西武軌道鉄道(後の都電杉並線)

 

明治20年頃になると、路線も青梅街道の北側、現大久保通りとの間を通す新案が示されましたが、地域住民の意見は「鉄道は村を衰微せしむ」という内容に集約され、これも実現しませんでした。

とうとう、江戸時代以来の産業の中心であった甲州街道・青梅街道沿線をあきらめ、用水や畑が少なく森の多い現在の路線に決定されたのです。東中野-立川間が直線なのは、このとき、万策つきた担当者が地図の上に定規で線を引いたためという伝説もあります。

さて、住民の根強い反対の中で開通した甲武鉄道でしたが、中野停車場周辺は軍事施設が設置されたり、商店が増えたり、住宅化が進んだりと沿線は目覚ましい発展を遂げていったのです。

一方、さびれた様相を呈してきた青梅街道筋では、路面鉄道の誘致が叫ばれ、大正10年(1921)8月26日に現在の西武鉄道の前身である西武軌道鉄道が淀橋-荻窪間に開通しました。これより少し前、甲州街道筋でも同様の動きが起こり、大正2年(1913)に笹塚-調布間に京王帝都鉄道が敷設されたのでした。当初住民の反対は実りましたが、後に鉄道の有益性が理解され大発展につながることが認識されたのは、良きか、悪きか、結果往来というべきでしょう。中野町誌(昭和9年刊)にはこう書かれています。「頑強に反対運動を起こしたるに依り(中略)今にして思へば笑止の沙汰なりと古老は語れり」と…

(中野区立歴史民俗資料館 館長 比田井克仁)

 

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