【中野の歴史-近代編10-】大都市東京発展のシンボル-野方配水塔


野方配水塔(南東側から望む)


大正時代頃の中野区は農村地帯でしたので、飲料水は井戸水に頼っていました。当時の東京では玉川上水の水を淀橋浄水場(現在の新宿中央公園)で浄化して水道水としていましたが、23区東部に配水され、農村地帯であった西部一帯には水道はありませんでした。

東京は近代都市としてインフラ整備をめざしている時期でしたので、大正8年(1919)に東京府は淀橋浄水場の設計者である中島鋭治博士に依頼して水道整備計画に着手しました。ところが関東大震災による人口の郊外流出により、計画を早めることになったのです。この計画は多摩川の水を世田谷区砧で取水・浄化して、世田谷区・中野区・杉並区・練馬区・板橋区・豊島区・北区に配水するという大規模なものでした。ところが、世田谷区から取水した水は標高の高いこれらの地域では水圧が落ちて、うまく配水できないのです。そこで、高い場所に配水塔を建てて、水を汲み上げて、投下させる方法で各戸に供給するということになりました。

そこで「野方配水塔」が設計されたのです。高さ33.6m、基部は径18m、鉄筋コンクリート造り、2,000tの貯水に耐えうる頑丈な造りです。昭和4年(1929)に竣工しました。
威風堂々とした姿、ドーム屋根のデザインの秀抜さから「みずのとう」と親しまれ、地域のランドマークとされています。平成22年(2010)には国登録有形文化財になりました。

(中野区立歴史民俗資料館 館長 比田井克仁)

※問い合わせ先の記載がない記事については、まるっと中野編集部までお問い合わせ下さい。
掲載場所近隣の区民の皆様に直接お問い合わせすることはご遠慮いただきますよう、お願い申し上げます。

※掲載情報は全て記事取材当時のものです。