【中野の歴史-近代編11-】区民が成功させた区画整理事業


上/整地碑(新青梅街道沿い) 左下/明治42年(1909)の江古田村中心地(右下は井上哲学堂) 右下/昭和20年(1945)の江古田。江古田川の流路と道路が整理されている


大正年間以来、中野区は急激に人口が増えてきましたが、元々農村地帯だった土地柄のため、農道は直線ではなく、田畑のあぜ道がそのまま街路になったりと、整備が必要になってきました。

そこで、大正15年(1926)には桃園川沿い(35.4ha)、昭和2年(1927)には神田川・本郷通り沿い(52.8ha)の区画整理事業が着手されましたが、すでに宅地化されているところはできなかったため部分的にならざるを得ませんでした。その点で、著しく効果が上がったのは、江古田・江原地区の区画整理でした。

昭和8年(1933)、地元の堀野氏・山﨑氏をはじめとした地主の人々が、江古田土地区画整理組合を設立しました。続いて、昭和11年(1936)に江原地域を対象として第二江古田土地区画整理組合が設立され、双方合わせて30万坪(100Ha)の土地の区画整理がはじまりました。江戸時代以来のくねくね曲がった道を直線にして、妙正寺川・江古田川の護岸工事も行われました。「江古田公園」と「江原公園」ができたのもこの時です。地元の人々にとっては大事業でした。

江古田・江原地域の道路は広く、直線的で見晴らしがよいという、住みやすい環境は、この時の地元の人々の先見の明によるものです。

この事績は、松が丘2丁目の新青梅街道沿いと江原町3丁目(第二組合)の江原観音堂境内の2つの「整地碑」(昭和17・18年建立)に記され、後世に伝えられています。
(中野区立歴史民俗資料館 館長 比田井克仁)

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